第113話『視点、視座、視座 (後半)』
『視座』に対するディスりラジオで終わるかと思いきや、最後にとても大事な考え方について、フランケンさんは言及されています。
最後だけ読むのもいいんですが、『視座・視点』の話も十分面白い回となっています。
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フランケンラジオ第113話文字起こし
フランケンの視点・視座ラジオです!
またね、後半を作ってしまいました。
後半どころかですね、このコンテンツは無くてもいいんです、本当は。ディスっているだけなんだから、『視座』という言葉を。
何をしているかというとですね、いわゆるかっこいいビジネスパーソン様、この人たちがのたまう『視座』、視ると書いて王者の座ですよね。
視座っていうカッコいいけどよく分からない言葉、これをこき下ろしているだけなんです。何10分もかけて。ちょっと性格悪いですよね、僕。それは皆知っているからまあいいや。
でもね、いると思うんですよ。この視座の概念について偉そうに、それこそ高い視座っていうところから、人の頭の上を覗くようなことをする人って。
で、それをされてムカついている人もいっぱいいると思うんですよ。ですからこの視座っていう言葉について、考えられるだけ深掘りしとこうというのが、今日の趣旨でございます。
ビジネスパーソン様が好きな、カッコいいけどよくわからないフレーズ
荒木先生「視点は多く、視座は高く、視野は広く」
復唱になりますけど、ビジネスパーソン様というのは何を見るのか、どこを見ているのか、これを『視点』と言います。どこから見るのかというのを『視座』、人のいる場所は『視座』なんですよね。でそういったんですねで見える範囲っていうのは視界という意味で『視野』と言っていますよね。
ですから、かっこいい荒木先生風に言うと、「視点は多く、視座は高く、視野は広く」。
これがね、カッコいいんですって。
カッコいい、うん、すごくカッコいい。格好はいいけど、よく分からねー。
理系と文系で異なる『視点』『注視点』の定義
理系は違うんですよね。視点というのは何を見ているかじゃなくて、何を見ているかというのは『注視点』というの。これ統一された用語なんですよ。
で、どこから見るのかというのは『視座』ではなく、『視点』、ビューポイントと書きます。
『視野』は『視野』で同じです。視点と注視点が混同されることは、100%ありえないんですよ。
注視点から視点、違う逆です。混同しました、100%じゃなかったです、すいません。
えーとですね、自分が立っている位置、視点から注視点、gazeする、これが混同されることは基本的にありません。調べてみると、英語圏もこの常識で回っております。
「理系のカメラ用語とか特許関係なんかで何て言うか知んねーけど、文系の世界ではそう言うんだよ」という方。
文系とかでも、実は『視点・視座』そんな文化は元々ありませんでした。ちょっと勉強したんですよ、しなくてもいい勉強を。例えば心理学、あとは認知科学このあたりですよね。
ここの視点というのは基本的にはビューポイントを使います。
立ち位置を指すんですよ、視点というのは。視座という言葉は出てこないんですよ。
一般的な考え方として、異なる視点から見える風景、前回出てきた円柱の見え方だね丸だったり四角だったりというのはアピアランス、見え方って言うらしいですよ。
それと、見たときの形、フォルム、この違いが丸や四角。実際に相手がどんな形をしているのか、対象は何なのかというのをシェイプと言います。難しい言い方をすると『実存』、この実存を把握するために、一つの視点じゃ分かりませんから、複数の視点を持ちなさいっていう風に考えるんですね。
学問的感覚から、注視点が変わるということを考えてみた
そうすると、この視点というのは上だったり横だったりするわけじゃないですか。
視点は移動するんですよ。この視点の移動を含む概念というのを『動的視点』という風に表現する。これは一般的な考え方のようですね。一連のポイント、学問的感覚からはやっぱり注視点が変わるというのは馴染まない、あんまり意味ないですよ。
なぜなら注視点、見ている相手が変わると議論の対象が別のものになっちゃうんですよ。
だからね、お呼びでないんですね。だから注視点が変わるという概念を取り扱う用語っていうのがほとんど発達していないんだと僕は予想します。
これが多分、学問とビジネスの根源的な違いかもしれないですよね。
ちょっと面白いので、同じ事象のことを扱っているけど注視点が変わる具体例っていうのはあるのか?これをちょっと考えてみましょうか。
僕はちょっと思いつきませんよ。視点を多く持つ…、分かりません。理系で言うところの注視点を複数持つというのは、どういう状況か全然分からないですね。
あーこれかな、みたいなのは思いつくけれども厳密に考えると皆、見ている位置、視座とやらが一緒に変わっちゃうんですよ。注視点だけが変わるというのはどうなのかなー。
注視点を変える例「傾斜地に真っ直ぐ銅像を置く」
僕がギリギリに捻りだした例。
とても真っ直ぐに銅像を置こうとします。傾斜地に銅像を真っ直ぐに置きたいんだけれども、その傾斜地の土台というのは、盛り土をして平らな地面を作ろうという風に、その土台に注目して頑張って作るんですよ。
この場合は注視点、見ているポイントというのは土台ですよね。
でも中々真っ直ぐにならない、だから何度やっても銅像は微妙に傾いちゃう。
目的を達成できない、何度やっても傾いちゃう。だけど傾いているというのは分かるんですよ。ですからちょっと注視点を変えてみてですね、仕方がないので真っ直ぐに見える角度に強制的にクレーンで吊り上げて銅像をぶら下げちゃうんですね。
この銅像と傾斜地の間に、ギュウギュウに隙間に石を詰めてみた。
そうすると注視点はちょっと変わっているんだけど、題材は変わっていない。
あんまりちょっとパッとしないね。かっこよくないです。
注視点だけ変えてみてもパッとした例が思いつかない。先輩すいませんって感じですわ、まあまあちょっと徒労でした、
「視点を変えろと言いながら、変わっているのが視点ではない」系の情報
変わっているのは『視点』じゃない、『視座』
話を戻しまして、視座っていう言葉をくさすコンテンツを作ろうと思って色々調べてみて、引っかかったものは視点変えろ系の情報というのは、ほとんど変えているのは視点ではなく、あなた達の言う視座ってやつが変わっちゃってます。それを「視点を変える」って説明しているんですよ。
僕はいいんですよ、自分のいる所を視点で表現で、それでしっくりくるから。
でも視座派の皆様っていうのは、ここは威信をかけてね、間違った使い方だってぶった切ってもらわないと。首尾一貫しないと駄目なんじゃないでしょうか。
言って欲しいんですよ、「お前ら、そこで変わってるのは視座だ。視点じゃねえ」ってね。
喧嘩をぜひやっていただきたい、でも誰もやらないんですよ。
本音は「視点でも視座でもどうでもいい」んじゃないかな
多分ね、彼らもどうでもいいと思ってるんじゃないですかね。だから僕が噛みついていることに対して、どうでもいいと思っていると思うんですよ。だったら使うんじゃねえよ、視座なんて言葉。と僕は思いますが。
僕が思うに視座派って、そんな派はないけれど。視座視座言う人が視座という言葉でしか説明できない事例として取り扱うのは、多分視座の高さ、目線の高さですよね、これだけじゃないかと思うんですよ。
これを考える時っていうのは、物事を平面的に、それこそ地図のように捉えて視座・視点・目線の高さというのを高くしりと遠くが見える、だから視野が広がる。こういうことを言いたい時に、視座っていう言葉を持って来たがりますよね。
だから『座』なんですよ。
そういう漢字を当てるんじゃないですかね。
意識高い系の人たちが好きな『高さ』
意識高い系の人達って高さが大好きなんですよ。ああ、意識も高い低いですよね。
メンタリティはきっと一緒でしょう。彼らにとって高いことはいいことなんですよ。
王様になりたいんでしょうね。
王座っていうのも高いところにあるから、そこから見下ろしたいんですよ。
いろんなものを、他人含めて。
だから不思議なほどに、水平の高さが変わらない状態で水平面上で物事をで回り込んで裏から見るみたいなことをやる時には、『視座が変わる』と彼らは使わないんですよ、不思議なことに。定義的には変わっているはずなんですよ。
水平面上の視座の変換っていうのには多分高さの概念は生まれないから、彼らは本能的に使わないんでしょうね。
もっと言うと、彼らのイメージとしては、視座というのは常に高い方向がプラスなんですよ。プラスにしか動かない、それ以外の意味は持ってないんです。
ビジネスパーソン様が視座を”下げる””低くする”と言わない理由の推察
調べてみてくださいよ、視座を“高くする”という表現はあっても、視座を“下げる(低くする)”という表現というのは、ほぼほぼ一個も出てこないんですよ。
そこに意味を与える記述というのは、最終的に一個も出てこなかったです。
随分といやらしい言い方をしますけれど、『視座』っていう言葉自体が、ビジネスパーソン様の上昇志向の表れなんじゃないかな。
現状に対するコンプレックスの表れとして、発明された表現なんじゃないかなと思っています。今上昇志向という言葉が出たように、やっぱり高度を上げたいんですよ、そういう人達って。
立体感っていうのはそういう風に構成されてるんですよね、できるビジネスパーソンっていうのは。
視座なんて本来は存在しないのではないだろうか
思うに、「カッコいい表現」としての翻訳がきっかけでは?
ちょっとそろそろウザくなってきたと思うんで、まとめに入りましょうかね。
僕が思うにですね、視座なんてものは本来の存在しないんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。認知科学とか社会学の人たちが翻訳の中で何何ビューポイントって出てきたのを、なんかちょっとかっこいいという理由から、日本語訳つける時に視座と訳した。それを誰かが見つけて、「かっこいい表現」って流行らせただけなんじゃねえのかなって思うんですよ。
それを否定するような何か出てこないかなと思っていろいろ探したんだけど、見つけられませんでしたよ。
高さという概念は、実は不要である。
3 D 画像とか立体とかっていうのを扱う業界にいると、高さっていう概念で実はいらねえんじゃないかっていうので皆持ってるんですよ。
高さというのが出てくるのは、対象の世界を世界そのものを動かすことができない、そういう常識がある場合には高さって有効なんだけどもね。そういう天動説的な偏見からくる、意味不明の概念なんですよ、高さって。
地面は動くという地動説的な概念を取り入れると、一気に高っていうパラメータ入らなくなるんですよ。
地面も動くし自分も動く、でも物事を俯瞰する時っていうのは実は自分を動かさないというのは一番簡単なんですよね。
だって目で見ていて、そういう写真が撮れるというの状態やるんだから、あえて自分が動く必要てないんですよ。ではどうやって物事見ればいいのかというと、これコンピューターグラフィックとかね3D作る時を思い浮かべてくれればいいんですよね。
右手に世界や対象というのを持って、その右手でくるくる回しながら、世界の中にある注視点というのを見てるんですよ。
ある注視点っていうのを横から見たければ、クルって横に回せばいいんですよね、世界を。底が見たければ、クルッと90度ひっくり返して底を見るんですよ。
真上から見ると反対側にクルッと回すんですよ。
そうすると、高さって概念がなくなっちゃうでしょう。
視点は変わってるんですよ。
上昇志向バイアスに毒された人たちの言葉遊びでしかない。
実はね、視点というのは目の位置と言ってたけどそれは嘘で、見られる対象、注視点から見る角度これ問題なんですよね。
この辺の話は、実は一番最初に誰かが言った「物事を別の角度から見ろ」という言葉で実は解決できる事象なんですよね。
だから、「視座視点?アホか」って話なんですよね。
上昇志向バイアスに毒された、つまらん言葉遊びっていうのね、もうなんか視座なんていう言葉使って、持ち込んでくれるなっていう話ですね。
このメンタリティってきっとあれですよ。
目次を、カッコいいからって最近アジェンダアジェンダ言っちゃう人たちのメンタルと一緒ですよね。
でも僕ね、すげー嫌いなのが「発売中」っていうのを「Now on sale」って言い始めたの、まあまずむかつく。
なぜか知らないけどすっげームカつく。
これがカッコ悪いなと思い始めたら、「In Store now 」とかにするみたいなという言い方にして、なんかね、色んな言い方っていうのねちょっとずつ発明してるんですよ、同じ意味なのに。
変な記号を乱発するんじゃねえと思いますよね。
トレードオフ
注視点の話に戻ります。
世界を右手に持ってグッと見てる時に、何を見てるか、注視点に対する角度で視点が決まるよって話をしました。
世界を近づけると、拡大率が上がるんですよね。
拡大率が上がると視野が狭くなります。逆に遠ければ全体が俯瞰できるようになりますよね、視野は広がるんですよ。
でも、倍率が下がった分詳細がわからなくなる。ここはトレードオフなんですよ。
ですからこのトレードオフにどっちがいいとかって概念は無いでしょう。
目的に合わせた倍率で、視野を設定すりゃいいんですよ。
つまるところ、視点関係の話っていうのは、全て角度とスケールで解決できる。
この2パラメータしか本来ないんです。
3 D のゲームなんかに関わったことがある人間にとって、これは当たり前の考え方ですよね。注視点、あとカメラポジション、そして倍率ね。
これだけで、視野というのは全部定義できます。高低という z軸がプラスであるという、この概念っていうのを、ことさらありがたがるという意味が僕には分かりません。
『視座』を持ち出す人の根底にあるものは他者より上にいるという満足感
最後にちょっと言っておくと、視座とか言うアホな言葉を高い低いで語る輩って、結局広がった視野というのが解像度を下げるという、このデメリットに言及しないんですよ。
ですからね、よく分からないことをやるんですよ。
視座を高くして広がった視野から、望遠鏡を使って細部を見るようなことをするんですよ。
視座を下げることでフォーカスを絞り込んで解像度を上げる、みたいなこういうことを言う人は全然いないんですね。
これ実にアホですわと思うんです。
結局、この視座という言葉を持ち出す人たちの奥底にあるものは何か?
僕の勝手な印象ですけれども、上下っていう軸を作って、その上下の直線定規の上で人より上にいるという満足を得たいだけなんじゃないですかね。
違ってたらごめんなさいだけど、100%そうだと確信しています、。実にくだらん!
視座っていう言葉を連発する輩を見つけたら、言ってごらんなさい。
「パイセン凄いですね。視座も意識も高いですね」と言ってあげたら、バカにされてんのに喜ぶから。
戻ります。今日言いたいことは二つですね。
まず視座視座言うやつはね嫌な奴です、これを相手にしてはいけませんよ。
まあもう一個言っておくと、視座視座言うやつをこんなに時間をかけてこき下ろす僕っていうのは、それに輪をかけてね嫌な奴ですからね。みんな僕を相手にしないでください。
着想と方法論を用いて、ビジネスで勝つために必要な『視点の変換』
あともう一つですね、視点を変えるって言うメッセージ最初の方に出てきましたけど、視点変えるっていうの、これ究極的に大事なんですよ。
なぜかというと、ビジネスの武器っていうのは着想と方法論、この二つでできているんですよ。
方法論というのは、ロジックやテクニックなんです。
このロジックやテクニックっていうのは、学べばトレースできるようになるんです。
ですから他人と同じ着想を得て、そこから他人に差をつけられちゃうっていうのは、勉強不足、経験不足なんです。
でも、同じ着想からつけられる差というのは、ロジックテクニックの経験や勉強の差なので、訓練することで何とかできる余地があるんですよ。
でも着想っていうものが無いと、実践すべきロジックや方法論テクニックっていうのが無いんですよね。
ですから着想ないと何もできない。
自分が干渉できる世界の中で他と異なる着想を得るには、それこそやっぱり視点の変換が必要ですよね。
世界や対象というの右手に持ち、裏返したり周りのものを見てみたりという視点変更を是非やってください。
最初からこの最後の1分だけあれば良かったのですが、まあそんな感じで。
視座 視座 言う人たちを散々 ディスったのでお腹いっぱいになりました。
ありがとうございました。
前後半通しで読むか、聴くと面白いみてください。
再びトラです。
今回の視点・視座ラジオ、前半回から通して音声を聴くか文字起こしを読まないと、面白さは半減だと思っています。
漫然と意識高い系のインフルエンサー様・ビジネスパーソン様が使っている言葉をもっともらしく使う前に、考えましょう。
「なんかカッコいいんだけど、意味がわからない」なら、調べようぜ。
最後の『着想と方法論』の部分、これは勤め人であろうが経営者であろうが、ビジネスで他から抜きん出るために忘れないでおきたい考え方ですね。